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社員教育の常識を疑う⑤ 心理的安全性という矛盾

連載「社員教育の常識を疑う」(全7回)

第5回:心理的安全性という矛盾

心理的安全性。ここ数年、ビジネスの世界で最も注目されたキーワードの一つだろう。「失敗しても大丈夫な環境をつくれば、チームのパフォーマンスが上がる」。直感的にも正しく聞こえるし、研究にも裏付けられている。

しかし私は、多くの組織で心理的安全性が構造的に機能しないと考えている。

理由は単純だ。「失敗しても大丈夫だよ」と言っているその人が、評価者だからだ。

外発的動機付けに基づく組織では、上司は部下の評価者である。評価者の前で失敗を見せることは、評価を下げる行為になる。どれだけ口で「大丈夫」と言われても、その人が自分の昇給や賞与に影響を与える立場にある限り、心理的に安全ではない。これは個人の信頼関係の問題ではなく、構造の問題だ。

心理的安全性だけではない。ビジネスの世界で広く受け入れられた手法の多くが、同じ構造的矛盾を抱えている。

PDCAサイクルを考えてみよう。Plan、Do、Check、Actの改善サイクル。理屈は正しい。しかし外発的動機付けが強い環境では、人はDo(実行)で止まる。正確には、Plan(計画)から先に進めない。なぜなら、実行して失敗したら評価が下がるからだ。評価者たる上司から「PDCAを回せ」と言われれば、なおさら実行段階で失敗を見せられない。本来は改善のためのフレームワークが、評価構造と結びつくことで、行動を抑制する装置に反転している。

有言実行もそうだ。もともと「不言実行」が変じたものだが、管理者にとっては宣言させた方が都合がよい。管理しやすいからだ。しかし実態はどうか。外発的動機付けが強い人は、宣言することで苦労する前に評価を前借りできる。既に評価を得た人には、それを実行に移す動機がない。一方、内発的動機付けが強い人は不言実行を好む。他者の評価は不要であり、むしろ先に宣言することで純粋な興味が損なわれることを直感的に知っているからだ。

結果として、宣言する人ほど実行せず、黙って取り組む人ほど成果を出す。しかし組織は前者を「意欲的」と評価する。

ここに共通する構造がある。

手法の問題ではない。評価構造の中にある限り、何を導入しても無効化される。

評価構造のプリズム — 心理的安全性やPDCAが評価構造を通ると自己保身・行動の抑制に変質し、業務管理と育成の評価を分離する必要性を示す図
評価構造のプリズム — あらゆる施策が評価と結びつき本来の目的と逆の効果を生む

心理的安全性も、PDCAも、有言実行も、評価構造がない前提であれば機能しうる。しかし外発的動機付けに基づく組織では、あらゆる施策が評価と結びつき、本来の目的と逆の効果を生む。

これは何かを導入すれば解決する問題ではない。そもそもの構造を問い直す必要がある。

ところが世の中には、この構造的問題に対して真逆の方向に突き進むマネジメント手法がある。

上下関係の徹底的な明確化こそが組織を強くすると謳い、部下が上司の判断に疑問を持つこと自体を「位置のずれ」「錯覚」として矯正する。感情は管理の妨げだとして排除し、曖昧さを一切許さない。人は自分の「位置」を正しく認識させれば効率的に動く、という前提に立つ。

こうした手法は商品として極めて売りやすい。パッケージ化でき、導入効果を数値化でき、即効性がある。経営者にとっては魅力的に映る。実際、短期的には組織に秩序が生まれ、成果の数字が上がることもあるだろう。

しかし、ここまで述べてきた観点から見れば、これは内発的動機付けを根こそぎ破壊する装置を、組織に制度として埋め込む行為だ。

「位置を正す」とは、自律性を構造的に奪うことだ。上司の判断に疑問を持つことが「錯覚」とされる環境で、自己決定は存在しえない。感情の排除とは、不安や不満を受容することの正反対だ。曖昧さの排除とは、選択の余地を消し去ることだ。この連載の第6回で述べる自律性支援の3条件――意義を本人の文脈で考えること、否定的感情を受容すること、選択を本人に委ねること――のすべてが、構造的に否定されている。

こうした組織から能力のある人材が離脱していくのは偶然ではない。内発的動機付けに至った人間にとって、自律性を構造的に否定される環境は耐え難い。残るのは外発的構造に適応した人材だけだ。短期的な秩序と引き換えに、組織の能力の天井を自ら下げている。

さらに言えば、この手法は前回までに述べた「教える行為による上下関係の固定化」を、個人の癖ではなく組織の制度として完成させたものだ。「上」は永久に「上」であり、「下」の逆転は構造的に許されない。教育とは本来、相手の成長を支えることのはずだが、この手法においては成長とは「位置を正しく認識すること」に矮小化される。人が本来持っている内発的な力――自分で考え、自分で選び、自分で学ぶ力――は、「位置」を乱すノイズとして排除される。

心理的安全性やPDCAは、少なくとも善意に基づいている。うまくいかないのは構造の問題であって、意図の問題ではない。しかし上下関係の強化を正義とする手法は、この連載が問題視してきた外発的構造そのものを、最も純粋な形で制度化している。善意ですらない。

では、どうするのか。私が提案するのは、教育と業務管理を明確に分離することだ。

業務の結果を客観的に評価することは必要だ。売上、成果物、顧客満足といった指標で評価することは、事業を回すために不可欠だ。これは否定しない。

しかし、能力向上やスキルアップ、学習態度や成長度合いを評価の対象にすることは、育成の領域から排除すべきだ。成長のプロセスに評価を持ち込んだ瞬間、そのプロセスは外発的になる。

評価を下すのは人でも制度でもなく、結果だ。結果は客観的に見える。しかし成長のプロセスを他者が評価することは、必然的に主観と権力を伴う。

「業務の結果でのみ評価し、育成では評価しない」。このルールを事前に明確に定めておくこと。それが、評価構造が全てを無効化するという矛盾を乗り越えるための、私なりの答えだ。

制度やフレームワークを導入する前に、まずその制度が機能する土壌があるかを問うべきだ。評価構造という土壌の上では、どんな良い種も枯れる。

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