「高い目標を掲げ、それに向かって努力する」
これは現代社会で広く正しいとされている考え方だ。自己啓発書にも、ビジネス研修にも、学校教育にも、この前提が当然のように組み込まれている。
私はこれを疑っている。
目標を設定するとは何か。まだ存在しない未来の状態を「正」とし、現在を「そこに至っていない不足の状態」と定義することだ。目標を掲げた瞬間、今の自分は未完成になる。今やっていることの意味は「目標達成のための手段」に変わる。過程そのものへの没入や、予期しない発見への開かれが失われる。
一見すると主体的に見える。しかし実態は、目標という外部の基準に自分を従属させている状態だ。目標に駆動されている。その目標はどういう動機で設定したのか。本当に自分がやりたいと思ったことか。評価のためではないか。承認のためではないか。社会的に望ましいとされる目標を「自分の目標」だと思い込んでいるだけではないか。

子どもに「将来のために今勉強しなさい」と言うとき、その子の「今」は丸ごと否定されている。ありもしない未来のために、現在を犠牲にしている。教育哲学者のデューイは100年以上前にこう書いた。「教育は生活の過程であり、将来の生活のための準備ではない」と。さらに「準備が統制的な目的とされるとき、現在の可能性は想定上の未来のために犠牲にされる」とも警告している。将来に固執することで、かえって将来への準備に失敗するという逆説だ。
実証研究もこの直観を裏付ける。目標設定の体系的な副作用を研究した論文では、注意の狭窄、リスク選好の歪み、非倫理的行動の増加、学習の阻害、組織文化の腐食、内発的動機付けの低下という6つの害が同定されている。別の研究では、外部から割り当てられた目標が、もともと面白い課題への興味や満足度を低下させることが確認された。パフォーマンスは一時的に上がるが、内発的動機付けは下がる。目標設定とは、長期的な学びと幸福を犠牲にして短期的な成果を得る行為なのだ。
では、目標を持たずにどう生きるのか。
今あるのは現在だけである。未来は現在の行為の結果として事後的に現れるものであって、直接操作できる対象ではない。「未来を変える」という言い方が流通しているが、人間に変えることができるのは未来ではなく、現在だけだ。現在に最善を尽くす以外に前進する方法はない。
ここでいう「最善」は、他者の基準や外部の評価軸に照らした最善ではない。自分にとっての最善であり、その時その時の選択でよい。人生はどこかに向かって進まなければならないというものではない。進んでもいいし、止まってもいい。止まるという選択もまた主体的な行為だ。
人生は線路の上を走る列車ではない。分岐の連続であり、その都度の選択が次の風景を決める。到達点は事前に存在しない。結果は事後的に見えてくるものにすぎない。
フロー研究の第一人者であるチクセントミハイは、現在の活動への完全な没入こそが最高のパフォーマンスと幸福を生むことを示した。2,250人を対象としたハーバード大学の研究では、人が覚醒時間の約半分を「今やっていること以外のこと」を考えて過ごしており、この現在からの離脱こそが不幸の原因であることが明らかになった。何をしているかよりも、現在に集中しているかどうかが、幸福度のより正確な予測因子だったのだ。
目標を捨てろと言っているのではない。目標が自分の内側から自然に湧き出たものであれば、それは内発的動機付けと矛盾しない。しかし、外から課された目標、評価や承認を動機とした目標は、現在を否定し、内発性を壊す装置になる。
教育者が被教育者の「あるべき未来の姿」を描き、そこに向けて導くこと自体が、外発的構造そのものである。
被教育者の「今」はそれ自体として尊重すべきだ。欠損として扱ってはならない。
連載「社員教育の常識を疑う」