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|尾嵜 聡
マネジメント

連載「社員教育の常識を疑う」(全7回)

第2回:「やりたい」は嘘をつく

経営者として、部下の「やりたい」を何度も信じてきた。そして、何度も裏切られた。

ある社員はコミュニケーションに課題を抱えていた。顧客からの指摘、周囲からの指摘、本人の自覚もあった。私はコミュニケーションの本を渡した。読まれなかった。

別のリーダークラスの社員が「自分だけでは自己啓発できない」と言った。その声を受けて社内もくもく会を企画し、10回ほど開催した。言い出した本人は3回目から来なくなった。

また別の社員が「iPhoneアプリを開発したい」と言った。Macを買って渡した。何ひとつアプリは作られず、そのMacはオンラインミーティング用の端末になった。

三つの事例には共通する構造がある。本人が「欲しい」「やりたい」と言った。それに応じてリソースや機会を提供した。しかし行動に至らなかった。

当時の私は、本人のやる気が足りなかったのだと思っていた。しかし今は違う見方をしている。

「やりたい」という発言と、内発的動機付けの存在は一致しない。

上司の前で「やりたい」と言うことには、評価上のメリットがある。意欲的に見える。向上心があると思ってもらえる。つまり「やりたい」という発言自体が、上司へのアピールとして機能する。本人にその自覚がない場合も多い。

さらに厄介なのは、「やりたい」と「やりたいと思いたい」の区別がつきにくいことだ。「自己啓発できない自分を変えたい」「アプリを作れる人間になりたい」――これらは一見すると前向きな意欲に見える。しかしその実態は、理想の自分と現実の自分のギャップから生じる焦りや不安であって、純粋な好奇心とは異質なものだ。「欠けている自分を埋めたい」という衝動は、内発的動機付けとは似て非なるものである。

この構造を理解するうえで、マズローの欲求階層説が手がかりになる。マズローは承認欲求と自己実現欲求を質的に異なるものとして区別した。承認欲求は「認められたい」「評価されたい」という外向きの欲求であり、外発的動機付けと結びつく。自己実現欲求は「やりたい」「知りたい」「成長したい」という内向きの欲求であり、内発的動機付けと結びつく。両者は一見すると地続きに見えるが、本質的に異なるものだ。

承認欲求に捉われた人には特徴的な行動パターンがある。褒められれば動くが、褒められなければ動かない。叱られたら萎縮するか、反発して動かなくなる。行動の基準が常に他者の評価にある。冒頭の三つの事例で起きていたのも、まさにこれだ。「やりたい」と言うこと自体が承認欲求の表れであり、上司に認めてもらうための行為だった。

ここにはもう一つ見落としやすい力学がある。褒めるという行為は、本質的に上下関係の構築だ。褒める側が「評価する者」、褒められる側が「評価される者」になる。この関係の中で「やりたい」を表明し、承認されることに依存した関係が成立すると、期待した承認が得られなかったとき、関係は敵対に転じる。「やりたい」が承認欲求から来ている場合、応えてもらえなければ不満や敵意に変わる。認めてほしかったのに認めてもらえない。その矛先は、応えなかった上司や組織に向かう。

ここで見落としてはならないのが、課題の認識と行動は全く別物だということだ。コミュニケーションの事例では、顧客も周囲も本人も課題を認識していた。全員が「問題がある」と分かっていた。それでも本は読まれなかった。「分かっている」ことと「動く」ことの間には、想像以上の距離がある。課題を指摘すれば人は動くだろうという前提自体が、教育者の思い込みだった。

本当に内発的動機付けがある人は、そもそも宣言しないことが多い。誰かに認めてもらう必要がないからだ。黙って始め、黙って続ける。だから外からは見えにくい。組織は声を上げる人を「意欲がある」と評価しがちだが、静かに取り組んでいる人の方が、実は深い動機を持っていることがある。

では、「やりたい」が本物かどうかを事前に見分けることはできるのか。

正直に言えば、ほぼ不可能だ。

だからこそ私は、「やりたい」の真偽を見極めようとすることをやめた。それは教育者の仕事ではない。真偽を見極めようとする姿勢そのものが、相手を「判定する側」に自分を置く行為であり、上下関係の構造に他ならない。

教育者にできるのは、意義を伝え、感情を受け止め、選択を本人に委ねること。それ以上は、本人の領域だ。

冒頭の三つの事例に共通するもう一つの問題がある。私がやったのは「リソースの提供」であって、人と向き合うことではなかった。本を渡す。場を用意する。機器を提供する。いずれも物だ。

コミュニケーションの本を渡す前に、なぜこの本が本人にとって重要なのかを説明したか。していない。本人が「読みたくない」「面倒だ」と感じたとき、その気持ちを受け止めたか。していない。読むかどうかは本人の選択だと明確に伝えたか。伝えていない。本を渡すという行為自体が、暗黙の強制になっていた。

もくもく会もMacも同じだ。なぜそれが本人にとって意味があるのかを一緒に考えることもなく、ただ「求められたから与えた」。それは人に向き合ったのではなく、要望を処理しただけだ。

物を渡すことと、人に向き合うことは根本的に違う。この違いに気づくまでに、長い時間がかかった。

連載「社員教育の常識を疑う」

  • ① 「教える」をやめた日
  • ② 「やりたい」は嘘をつく(この記事)
  • ③ 火を灯すな、火を守れ
  • ④ 目標が人を壊す
  • ⑤ 心理的安全性という矛盾
  • ⑥ 馬を水辺に連れて行く
  • ⑦ この理論は万能ではない
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