私はQukuriの経営者として、これまで何人もの人を育てようとしてきた。研修を用意し、本を渡し、目標を設定し、進捗を管理した。部下の成長のために時間を使うことが、経営者としての責務だと思っていた。
しかしあるとき、自分自身の経験を振り返って気づいたことがある。
自分自身で成長を実感したのは、誰かに教わった時ではなかった。
かつて私は、採用から営業までを一人で任されたことがある。マーケティングの知識を活かし、採用と営業を一貫した戦略で回した。誰にも指示されず、自分の判断で動いた。採用と営業の両方が相乗効果を生み、目に見える成果が出た。目標など設定しなかった。青天井で、ただ面白いから全力で取り組んだ。
ところが会社が成長すると、社長が突然会議を仕切り始めた。目標を設定され、毎週の進捗報告を求められるようになった。それまで何の成果も協力もしてこなかった人間から、一方的に管理される。やる気は一瞬で消えた。
この経験は私に重要なことを教えてくれた。
私が育ったのは、教育を受けた時ではない。教育の隙間に、自分の判断を差し込んだ時だ。上司の指示に従いながらも、可能な範囲で自分のやり方を確立していった。うまくいけば手応えを感じ、さらに工夫を重ねた。その好循環の中で、能力は自然に伸びていった。逆に、裁量を奪われた瞬間、その好循環は止まった。
ここで一つの疑問が生まれた。私が部下に対してやってきた「教える」「管理する」「評価する」は、彼らに対しても同じ破壊をしていたのではないか。
この疑問を掘り下げていくうちに、教育の構造的な問題が見えてきた。
外発的動機付けに基づく教育――つまり、評価し、目標を設定し、報酬と罰で動かす教育は、即効性がある。人を一定のレベルまで成長させることができる。しかしそこで得られる能力には天井がある。内発的動機付けに基づく学びと比べると、到達点も持続性もはるかに劣る。さらに厄介なことに、その能力は教育を施された環境でしか通用しないことがある。その会社では有能だが、環境が変わると何もできない。本質的な能力ではなく、特定の構造に適応しただけの能力だ。

もう一つ、見過ごせない問題がある。教える側の動機だ。
教える行為は、上下関係の構築と維持の手段になりうる。知識を持つ者が持たない者に教えるという構造は、教える側に「上」のポジションを与える。上位を維持するために教えることに拘る人は、実は自身の外発的動機付けを満たしているだけかもしれない。教える側が「上」を維持しようとすれば、教わる側の成長は構造的に制限される。外発的教育で得られる能力がわずかなのは、方法論の問題だけではなく、教える側がそもそも伸びることを許していない可能性があるのだ。
問題は「教えること」そのものではない。「教えることで上下関係を構築・維持する構造」にある。貢献や必要性に基づいて知見を共有することは、教育者の内発的動機付けから生まれうる。しかし、権威や優位性を維持するための教育は、構造的に外発性を再生産する。
こうした問題を考え続けた末に、一つの信念に至った。
高い能力の獲得と幸福な生活には、内発的動機付けと自己決定が必要である。
内発的動機付けとは、純粋な知的好奇心であり、「やりたい」という感覚のことだ。誰に言われなくても、自然と向かっていく力。自己決定とは、何を、どう、どの順序で学ぶかを自分で選ぶことだ。
この二つが揃っているとき、人は放っておいても学び続ける。専門的なスキルは、その道中で手に入る副産物にすぎない。本質的な能力とは、特定のスキルではなく「自分で学び続ける力」そのものだ。
そしてこの力は、外部から与えることができない。
教えれば教えるほど、相手の自己決定を奪う。管理すればするほど、内発的な動機を壊す。評価すればするほど、純粋な興味を外発的な報酬に置き換えてしまう。
では、教育者には何ができるのか。
私が至った答えは、「教える」ことをやめることだった。代わりに、二つの原則を置いた。第一に、相手の中にある内発的動機付けを壊さないこと。第二に、相手が自分の力で歩み出せるよう、自律性を支えること。
これは教育の放棄ではない。むしろ、教育に対する最も真剣な向き合い方だと私は思っている。
この連載では、この考えに至るまでの経験、その理論的な根拠、そしてこの考えの限界までを語っていく。既存の教育論に対するアンチテーゼとして、読んでくださる方の常識を少しだけ揺さぶることができれば幸いだ。
連載「社員教育の常識を疑う」
- ① 「教える」をやめた日(この記事)
- ② 「やりたい」は嘘をつく
- ③ 火を灯すな、火を守れ
- ④ 目標が人を壊す
- ⑤ 心理的安全性という矛盾
- ⑥ 馬を水辺に連れて行く
- ⑦ この理論は万能ではない